「精神分析入門講義」|フロイトを読んで 自分にも把握できない無意識が潜んでいる

読書

無意識は私たちとどの様なかかわりがあるんだろう。

普段何気ない行動や行為には、必ずと言っていいほど無意識の願望が現れている

日常でのこんな例え話がある

蒸し暑い日が続いていた。

そんな中、エアコンの効いた部屋は格別である。

誰かが口を開いた。

「天国のように涼しい」

ある人は、一見涼んでいるだけのように思える。

だがそこで疑問が生まれた。

なぜ、今この瞬間天国というものが涼しいといういち位置づけなのだろうか”と。

一概に涼しくないとも言えないが、涼しいともわからない。

行ったことも見たこともない空間なはずなのに、なぜそう発したのか自分でもよく分からなかった。

天国の対の語として、”地獄”があるが、地獄では熱いのか。

これは、一種の印象操作と呼ぶものに値するのだろうか。

発したときは意識していなかったが、後から自分で理解しようと思っても難しい。

それにしても無意識の想像力には驚かされた。

自分を自分で欺いている感覚

人と会話をする時、その時に都合のいい人格がでてきて喋ってる感覚がある。

本当に自分は今発した言葉の通りに思っているのか?と聞かれても答えずらい。

かと言って、嘘ついて騙そうだなんて1㎜も思っていない。

言葉と感情と意識は別々にいて、その場を満足させるための最適解を確立させ、態度をテンプレ化して接しているだけなのかも。

どれが私の本当の気持ちで、無関心なだけなのか、無責任なだけなのか、諦めなのか。

相手のためを思って言っているのか?

気持ちをそこに入れて寄り添うことも出来るが、負担は大きい気がする。

意見が対立しても、どっちもの立場に立ってそれなりの言葉を並べ寄り添える自信がある。

なんならどっちもを否定できる。

私の言動によって誰かを助け、ずっと後になってもその気持ちのままな自分でいられるかという自信はない。

これは偽りの自分なのか、本当に思って言動している自分なのか。

自分でも分からない。

その葛藤を眺めているまた別の自分、もいる。

無意識と私

無意識の発見者で有名なのが、オーストリアの精神科医である”ジークムント・フロイ”だ。

過去に彼の著書である「精神分析入門講義」を読んだことがある。

きっかけは、精神科医である名越康文先生がYouTubeで夢分析について話していた動画を見て、夢にもたらされる影響や意味に興味を持ったのが始まり。

本書について簡単に説明すると、「無意識と意識は対立している」ということ。

都合の悪い自分の中の思考や想いを無意識の中に抑圧してしまっている。

つまり、彼は”無意識の中には自分が見たくないものばかりが詰まっている”、と主張しており、無意識について研究する中で、”錯誤行為”、”夢”、”神経症”について分析している。

神経症について詳しく述べると、自分以外の誰かに操られているように感じるということ。

社会の近代化によって、こうあるべきとか、~してはいけないといった抑圧、人間の行動の平均化没個性化によるもので今の日本と似ているなぁと感じた。

同調圧力にも関連するものかなと思ったり。

普段私たちは自分のことは自分が一番よく分かっていて理解していると思っているが、ほんの一部に過ぎないのだなぁと思い知らされた。

自分のことですらわかってないのに、他人を理解するなんて無理に等しいってこと。

人間関係で相手が何を思っているか分からない時、そんなに悩まなくてもいいのだと思うと気が軽いよね

人間関係、私も難しいなって感じるし、悩むことも多いいと思うけど、考えすぎていいことないのは確かだから、皆そんな時は誰かに聞いてもらおう^^

最後までご覧頂き、ありがとうございます!

日常生活や人とのかかわりの中で疑問に思ったこと、ゆったり書いていこうと思うので、この記録が少しでも皆さんの役に立つことができたのなら望外の喜びです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました